我妻善逸が修行していた場所に桃の木があったことは、『鬼滅の刃』のファンであれば誰もが覚えていることと思います。
しかし、「リンゴ」や「梨」ではなく、なぜ「桃」だったのか、そこには原作者・吾峠呼世晴(ごとうげ・こよはる)先生の深いこだわりがあったと思われます。
今回は、「善逸と桃」という組み合わせの意味を、「花言葉」と「古事記」から考察していきたいと思います。
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「桃の花言葉」に当てはまる我妻善逸
3月3日の「桃の節句」が女の子のお祝いであることからもわかるように、桃の花言葉には、「チャーミング」「気立ての良さ」という、女性を愛でる意味があります。
しかし、西洋の花言葉には「unequaled qualities(比類なき素質)」というものがあり、これこそ、善逸にピッタリなものではないでしょうか。
更に、古事記に由来する「天下無敵」という意味も含んでいます。
なんだか奥深い感じがしてきた「桃」、まずは古事記からの由来をご紹介します。
「桃」は古事記の初期に出てくる重要アイテム
『鬼滅の刃』は古事記とリンクするところがたくさんある、ということをご存じの方も多いのではないでしょうか。
その中でも「桃」は、古事記の最初期に出てくるエピソードに深く関わるアイテムなのです。
国土と神を作った「イザナギ」と「イザナミ」の悲恋
「伊耶那岐(イザナギ)」と「伊耶那美(イザナミ)」、名前が似ていて紛らわしいですけど、古事記で最初に登場する重要人物です。(正確には「人物」ではないのですが、擬人化されている)
この二人によって国土が作られ、神々が生み出されたのですが、イザナミが「カグツチ」という火を司る神を生んだとき、その火によって火傷を負い、命を落としてしまいます。
「カグツチ」は原作のタイトル候補に入っていた
「カグツチ」という名前を聞いて、すぐピン!ときた方は、相当な「鬼滅通」ですね、私は全然「ピン!」ときませんでしたが。。
これは、原作コミック「第3話」と「第4話」の幕間カットです。
物語の中での「ヒノカミ神楽」と「日の呼吸」の重要性を考えると、吾峠先生が「カグツチ」という言葉をタイトル候補の一部に考えていたことも「なるほど」と思いますね。
「黄泉の国」での出来事
命を落としたイザナミを生き返らせるため、イザナギが向かったのが「黄泉の国」です。
日本人であれば「黄泉の国」が何を(どこを)指すのかはわかりますよね。
「黄泉の国」と「桃」のつながり
黄泉の国に来たイザナギに「戻って来て欲しい」と言われたイザナミは、イザナギに対してこう約束させます。
「この黄泉の国の食べ物を口にしてしまったので、もう戻ることはできない。しかし、この国の神と交渉してみるので待っていてほしい。ただし、その間、決して私の姿を見ないように」
ところが、長い間待たされたイザナギは、イザナミの姿をこっそり見てしまいます。
そしてそのとき見たイザナミの姿は、かつての美しいものとはほど遠い醜い姿となっていたのでした。
約束を破ったイザナギに対し、烈火のごとく怒り狂ったイザナミは、逃げ出したイザナギを鬼女に追わせて捕らえるよう命じます。
しかしそのときイザナギが投げつけた「あるもの」で、追ってきた者たちを撃退しました。
その「あるもの」が、道中にあった木から実をもぎ取った「桃」だったのです。
「桃」は、現世と黄泉の国の境に生えている植物とされていて、「天下無敵」という花言葉は、鬼女を撃退したこのエピソードが基になっています。
「イザナギ」と「イザナミ」のその後
イザナギは、醜女となったイザナミをこちらの世界に来させないために、岩で道を塞ぎました。
そのとき、イザナミが恨みを込めてイザナギに言った言葉が「あなたの国の民を一日に千人殺します」でした。
そしてそれに対するイザナギの言葉が「それならば、私は一日に千五百人の命を与えよう」でした。
このエピソードの「千人を殺す」と言ったイザナミが鬼舞辻無惨のモデル、「千五百人の命を与える」と言ったイザナギがお館様のモデル、とも言われています。
「黄泉の国」、英語ではなんと訳されていた?
日本人にはおそらく説明不要な「黄泉の国」ですが、翻訳されたものはどうなっているのでしょう?
お館様が無限列車編の最後に仰ったセリフの中に「黄泉の国」という言葉が出てきましたが、その場面、英語版ではこうなっています。
「the other world」、「杏寿郎や皆のいる」という言葉から意味が読み取れるので、これで十分なのかもしれません。
ちなみに、劇場版の英語字幕では「the land of the dead」と、少し説明が加わった訳になっていました。
どちらが「better」と感じるかは人によって違うのだと思いますが、「黄泉の国」という字面と響きの美しさは、やはり日本語ならではですね。
善逸の重要場面に出てくる「桃」
修行していた場所
我妻善逸が師匠や兄弟子とともに修行していた場所、そこにはたくさんの桃の木がありました。
那田蜘蛛山での善逸の回想では、ビービー泣いてばかりいる弱虫の善逸に、兄弟子の獪岳(かいがく)がイラついているシーンがありましたね。
そこで獪岳が桃をかじり、さらに善逸に桃を投げつけていたことで、見ている私たちにも「桃」が強く印象に残っているのだと思います。
兄弟子・獪岳との対決で披露する新技も「古事記」から
優秀な剣士だった獪岳
善逸の兄弟子・獪岳は、師匠の桑島慈悟郎(くわじま・じごろう)から、善逸と並ぶ「雷の呼吸の継承者」として認められていました。
善逸は、獪岳から「お前みたいな奴に割く時間がもったいない」だの「目障りだから消えろ」だの、ひどい言葉を浴びせられますが、それでも、ひたむきに努力していた獪岳のことは尊敬していたのです。
鬼になってしまった獪岳
獪岳は鬼殺隊の剣士となりますが、上弦の壱・黒死牟と出遭ってしまったことで、命乞いをして鬼になっています。
そのことに対する師匠の責任として、桑島慈悟郎は割腹自殺をしてしまい、それを知った善逸は獪岳を倒すことを決意。
そして最終決戦地の無限城で二人は再会し、雷の呼吸の継承者同志で戦うことになります。
勝負を決した善逸の技『漆(しち)ノ型・火雷神(ほのいかづちのかみ)』
雷の呼吸は「陸ノ型」までしかありませんでした。
しかし、基本の「壱ノ型」を極めた善逸は、自分で新たな「漆ノ型」を生み出し、上弦の陸となっていた兄弟子・獪岳を倒したのです。
そして「火雷神(ほのいかづちのかみ)」は、実は古事記に出てくる神のひとつでもありました。
黄泉の国で「イザナミ」の体に宿っていた神
また出てきました「イザナミ」。
実は、イザナギがこっそり見てしまったイザナミの体には、八柱の雷神・八種雷神(やくさのいかづちのかみ)が宿っていました。
そしてその「八種雷神」のひとりが「火雷神」で、イザナミの胸に宿っていたとされています。
尚、「八種雷神」とは、以下の8つの神を指します。
神名 | 部位 |
---|---|
大雷神(おほいかづちのかみ) | 頭 |
火雷神(ほのいかづちのかみ) | 胸 |
黒雷神(くろいかづちのかみ) | 腹 |
析雷神(さくいかづちのかみ) | 女陰 |
若雷神(わかいかづちのかみ) | 左手 |
土雷神(つちいかづちのかみ) | 右手 |
鳴雷神(なるいかづちのかみ) | 左足 |
伏雷神(ふすいかづちのかみ) | 右足 |
死の淵で見た、師匠のいる「黄泉の国」
獪岳との「兄弟対決」を制した善逸でしたが、善逸の受けた傷も深く、生死の境をさまよいました。
そのとき、夢の中に師匠の桑島慈悟郎が出てきます。
この場面、師匠がいる側の土地に生えているのは、小さくて分かりづらいですが「桃の木」です。
現世と黄泉の国の境に生えている「桃」は、善逸と師匠との絆をつなぐものでもあったのですよね。
無限列車で見た「幸せな夢」の中
善逸が無限列車の中で見ていた幸せな夢、それは、自分の故郷とも言える「あの桃の木がたくさんある場所」へ、大好きな禰豆子を連れていく夢でした。
人生で初めて、自分に対して本気で向き合い、辛抱強く指導してくれた師匠との思い出の場所、そこにあった「桃」は、善逸にとっては「幸せの象徴」だったのだと思います。
まとめ
善逸と桃については、実は当初それほど深い意味があるとは思っていませんでした。
古事記についてもほとんど知識がなく、ただ「古事記を知っていれば、また違う視点から楽しめるかな」ぐらいに考えていた程度だったのです。
ところが、古事記の最初を少しかじってみると「桃」が出てきて、「火雷神」も出てきて、更には花言葉が「比類なき素質」。
これはもう「善逸について書け」と言われているようなものだと勝手に解釈し、まとめてみました。
禰豆子役の鬼頭明里さんは「無限列車編はずっと重くてシリアスな話なんですけど、善逸の夢は本当に幸せな空間だった」と言っていて、ファンもきっとそう感じていたと思います。
それは善逸自身が、あの場所を本当に幸せだと思っていた何よりの証ですよね。
善逸と兄弟子・獪岳との最後の戦いにつきましては、こちらの記事で詳しく解説していますので、是非ご覧ください。
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