黒死牟と猗窩座、無限城でのセリフからわかるお互いへの思いと、最終形態の違いを考察

十二鬼月
©吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable

黒死牟と猗窩座はともに上弦の上位で、鬼舞辻無惨からも気に入られている強い鬼です。

猗窩座は無限列車編で初めて登場し、遊郭編の最初と最後にも登場していることから、すでに物語の中では重要なキャラクターとなっていることがわかりますね。

そして、刀鍛冶の里編の最初に来ると思われる「上弦会議」でベールを脱ぐ鬼のひとりが、上弦の最高位「壱」に君臨する黒死牟。

今回は、黒死牟と猗窩座がお互いにどう思っているのか、そして最終形態に差が出たのはなぜだったのかを考察していきます。

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黒死牟と猗窩座はお互いをどう思っている?

まず、黒死牟が猗窩座を気に入っていたことは、はっきりと公式ファンブックに書かれています。

お気に入りの猗窩座から入れ替わりの決戦を申し込まれたことは嬉しかったようです。

公式ファンブック『鬼殺隊見聞録・弐』

では、一方の猗窩座はどうだったのでしょう。

本編で二人の思いが描かれている場面を紹介していきます。

上弦会議

©吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable

「上弦会議」とは、遊郭で上弦の陸・妓夫太郎&堕姫が倒された直後、鬼舞辻無惨が他の上弦の鬼を無限城に呼び寄せたシーンのこと。

原作ではこのシーンが描かれた回のタイトルは『上弦集結』となっており、鬼殺隊と鬼との戦いがさらに激化する前触れであることを伺わせます。

黒死牟に宣戦布告した猗窩座

©吾峠呼世晴/集英社 コミック第12巻

猗窩座は上弦の参なので、入れ替わりの決戦を申し込む相手は、まず上弦の弐・童磨であるのが自然です。

しかし、猗窩座が宣戦布告したのは上弦の壱・黒死牟。

無惨を除けば黒死牟が最強の鬼であり、「まずは上弦の弐になる」という段階を踏むことなど、猗窩座にとっては無意味だったのでしょう。

また、「強い者と戦って勝ちたい」という猗窩座の純粋な思いは黒死牟もわかっていて「励むことだ」と答えたのです。

このとき黒死牟の方はどんな思いだったのか、上弦会議の時点でははっきりしていませんでしたが、後に猗窩座が倒されたときに放ったセリフにより、本心が判明しています。

最後の無限城

©吾峠呼世晴/集英社 コミック第18巻

猗窩座は、無限城での最終決戦において鬼殺隊に頸を斬られています。

これまでの鬼たちの状況を見てみますと、他の鬼が倒されたことに対し、驚くことはあっても、悲しんだり悔しがったりすることはありませんでした。

しかし、猗窩座が倒されたことを知った黒死牟は、珍しく感情を露わにしています

苛立ちは期待の裏返し

©吾峠呼世晴/集英社 コミック第18巻

黒死牟が悔しかったのは、猗窩座が鬼殺隊にやられたことよりも、頸を斬られたあと再生しかけていたにもかかわらず、猗窩座自らが再生を拒んで散っていったことです。

決戦を申し込んできた猗窩座に対し「励むことだ」と冷静に答えていた時点では、黒死牟の真意を伺い知ることはできませんでした。

しかしこの苛立ち方により、「励むことだ」というセリフには「どうせ私に挑んでも無駄だ」といった軽蔑の意味は含まれていなかったことがわかります。

ファンブックにあるとおり、本気で嬉しく思っていて、その真意は「もっと強くなれ。楽しみにしている」だったのではないでしょうか。

黒死牟に決戦を挑んだ他の鬼

黒死牟に入れ替わりの決戦を申し込んだ鬼は、猗窩座の前にも2体いましたが、いずれも黒死牟に食べられ吸収されています。

黒死牟が挑んできた鬼を食べることは、私が許可した。

黒死牟に決戦を挑むほどですので、その2体も上弦の鬼だったのでしょう。

それでもやはり黒死牟には勝てず、食べられる羽目になったのです。

しかし、猗窩座のことは「励むことだ」と言ってそのまま生かしています。

二人の様子を見てみますと、まず猗窩座にとって、上弦の壱に君臨する黒死牟は「絶対に倒したい相手」でした。

一方、黒死牟にとっての猗窩座は「挑まれることを嬉しく思う存在」だったようです。

鬼になってからも強さを求めて精進していた二人だからこそ、通じる部分があったのではないでしょうか。

黒死牟と猗窩座の共通点と相違点

黒死牟と猗窩座は、ともに過去がしっかり描かれているキャラクターです。

最終形態の相違を考察するのに欠かせない二人の過去から、まずは共通点と相違点を見ていきましょう。

共通点:正統派の武道家

鬼殺の剣士だった黒死牟

©吾峠呼世晴/集英社 コミック第19巻

誇り高き武士だった黒死牟は「どんな卑怯な手を使ってでも勝つ」という考えは持っておらず、正面からの勝負を挑む正統派の武道家でした。

上弦の鬼が使う血鬼術の中には、人間には到底できない「分身を作って戦う」とか「自分から離れた武器も操れる」といった、いわば妖術のような技も見られます。

しかし、黒死牟は呼吸で自身の持つ刀を操っていて、人間時代と同じ戦い方にこだわりを持っていることが伺えます。

素流の使い手だった猗窩座

©吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable

一方の猗窩座の戦い方も、黒死牟と同じく、ある種のこだわりが見られます。

猗窩座の場合は武器を使わず、自分の体のみを使う武術「素流」のスタイルを貫いています

常に鍛錬を怠らず、上弦の参という地位でもさらに高みを目指すストイックさがありました。

また、無惨からの指令がない限りはひたすら鍛錬に明け暮れており、「人間を殺すことを楽しむ」といった思考を持ち合わせていなかったところも、黒死牟と似ていたのかもしれません。

相違点:生まれ育った環境

武士の家系に生まれた黒死牟

©吾峠呼世晴/集英社 コミック第20巻

黒死牟は戦国時代「継国家」という武士の家系に双子の兄として生まれていて、下の名前は「巌勝(みちかつ)」。

長男だった巌勝は、継国家の跡取りとして大切に育てられます。

決して甘やかされていたのではなく、教養や剣術を身につけて跡継ぎにふさわしい人間になれるよう、巌勝自身も真面目に努力していました。

強くなりたかったのは弟に勝つため

一方、双子の弟「縁壱(よりいち)」は、生まれてすぐに「跡目争いを起こさないように」と父親に殺されそうになりますが、母親が怒り狂って止めたことで生かされていました。

兄とは何もかも差を付けられて育ち、剣術も習わせてもらえませんでした。

しかし7歳になったある日、縁壱には剣の才能があったことが判明

©吾峠呼世晴/集英社 コミック第20巻

懸命に修行に励んできた自分を超える動きで相手を失神させた弟を見て、巌勝は初めて嫉妬します。

その嫉妬の炎は、縁壱が姿を消したことで一度鎮火したかに思えましたが、大人になって再会したときに再燃。

その炎が消えることはなく、縁壱よりも強くなるために鬼になる道を選び、何百年も生き続けています。

貧しい家に生まれた猗窩座

©吾峠呼世晴/集英社 コミック第18巻

猗窩座が生まれたのは江戸時代で、人間のときの名前は「狛治(はくじ)」。

黒死牟と違い、貧しい家の生まれで、病気の父親の薬を買うお金さえなく、まだ子供だった狛治は盗みを繰り返すことで薬代を捻出していました。

ところが、そのことに心を痛めた父親は自殺、狛治は荒れて手の付けられない状態になったのです。

そんな狛治を見て道場へ誘ってくれたのが、「素流」という素手のみで戦う武術の師範である慶蔵でした。

「戦いに使うのは自分の素手のみ」

この慶蔵の教えに従い、狛治は武器を持たずに戦う術を身につけたのです。

なお、「猗窩座が生まれたのは江戸時代」とする根拠は下記の記事にて解説しています。

強くなりたかったのは愛する人を守るため

猗窩座は鬼になってからも、ストイックに鍛錬を重ね、とにかく強くなることに執着していました。

それは「強くなって大事な人たちを守る」という人間時代の思いをそのまま持ち続けていたからです。

ただ、猗窩座は狛治だった人間時代、愛する人を守ることができませんでした

©吾峠呼世晴/集英社 コミック第18巻

慶蔵の娘・恋雪(こゆき)との結婚が決まり、恩ある二人を命に変えても守ると誓った狛治。

その矢先、井戸に毒を入れるという卑劣な方法で慶蔵と恋雪が殺されてしまいます。

隣の道場の息子による逆恨みが原因で、それを知った狛治は隣の道場の67人を素手で殺害。

あまりの惨状に人々は「鬼が出た」と騒ぎ、それを聞きつけてやって来た無惨と遭遇したために、鬼にされてしまったのでした。

黒死牟と猗窩座の最終形態の違い

黒死牟と猗窩座は、ともに正統派の武道家でした。

そしてもうひとつ、「頸を落とされても再生できた」ことも共通しています

ところが、その再生した姿にはかなりの違いがありました。

その違いはどこから生まれたのでしょうか。

化け物のような姿になった黒死牟

黒死牟は、無限城での戦いにおいて、岩柱・悲鳴嶼行冥と風柱・不死川実弥によって頸を落とされています。

しかしそこから頭部を再生し、最終形態を完成させました。

一度は歓喜した黒死牟でしたが、不死川実弥の日輪刀に映った自分の姿を見て愕然

©吾峠呼世晴/集英社 コミック第20巻

黒死牟は元々誇り高き武士だったこともあり、鬼になってもそのたたずまいには品格がありました。

しかし、心の中では、剣の天才だった弟・継国縁壱への嫉妬と羨望が何百年も渦巻いていたのです。

頸を落とされても負けを認めず、生き延びるために必死で再生させた姿は、誇り高き武士とは思えないものでした。

この姿は、己の心を自分で醜く思い、生き延びていることを恥じていたことが形になって現れたものだったのではないでしょうか。

黒死牟の最終形態につきましては、こちらの記事で詳しく紹介しています。

元の姿に戻りかけていた猗窩座

一方、武士ではなかったものの、同じ武道家だった猗窩座はどうでしょうか。

©吾峠呼世晴/集英社 コミック第18巻

猗窩座の場合、途中で自ら再生を拒んだため、最終形態は完成していませんが、この途中の顔を見る限り、元の状態と同じように見えますね。

鬼になってからは人間のときの記憶を全てなくしてしまい、ただ強くなることだけを求めて生きてきた猗窩座。

しかし、無限城での戦いにおいて過去をだんだんと思い出し、これ以上生きる意味がないことを悟り、「自ら再生を拒む」という最後を選んだのです。

望んで鬼になったわけではなかった

©吾峠呼世晴/集英社 コミック第18巻

猗窩座は黒死牟とは違い、鬼になることを望んでいたわけではありませんでした。

しかし、67人もの人間をひとりで殺した強さを鬼舞辻無惨から見込まれ、無理やり血を注入された結果、順応してしまったのです。

鬼となって人間時代の記憶をなくした猗窩座は、亡くなってしまった大切な人のことも忘れていましたが、「自分が強くなって守る」との思いだけは持ち続けていました。

©吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable

恋雪の髪飾りだった「雪の結晶のモチーフ」を攻撃の羅針盤に見立て慶蔵の教えどおり常に素手だけで戦っていたのは、猗窩座本人さえ気づかないほど心の奥深いところに、過去の思いがあったからなのでしょう。

もちろん、たくさんの人間を殺してしまったことは、決して許されるものではありません。

しかし、再生させようとしていた頸が、黒死牟とは違って元の姿と同じだったのは、生への執着が私利私欲ではなく、愛する人たちへの強い思いが純粋なことの現れだったのだと思います。

猗窩座の最後につきましては、こちらの記事で解説しています。

まとめ

黒死牟と猗窩座、ともに武道家だった二人のいちばんの違いは、鬼となってからの目標の有無だったように思います。

猗窩座は自分より格上の鬼を倒すことを目標にできましたので、そういった意味では、黒死牟よりも救われていた部分が、もしかしたらあったのかもしれません。

しかし黒死牟は、自分より強い鬼は存在せず(無惨は別)、誰よりも勝ちたかった弟の縁壱はとうの昔に亡くなっています。

かといって、人間を殺すことを楽しむようなタイプでもなく、ただ孤独に生き長らえてきたのではないでしょうか。

猗窩座が自ら再生を拒んだことに対して黒死牟が苛立ちを隠せなかったのは、自分に敵意むき出しで挑んで来られたことを嬉しく思い、相まみえる日を楽しみにしていた証拠でもありました。

醜い姿になって「なぜ」を繰り返し、虚しさいっぱいで孤独なまま消えていった黒死牟と、元の姿になって愛する人のところへ戻った猗窩座の最期は、とても対照的でした。

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