これは、
日本一慈(やさ)しい
鬼退治の「時代をめぐる」
お話(記事)である。
みなさん【鬼滅の刃】日々感じてますか?
ド派手に心を燃やしてますか?🔥
さて、今回の記事は、
【鬼滅の刃】の舞台になった大正時代や、鬼の始祖(しそ)、鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)が生まれたとされる平安時代など、【鬼滅の刃】を通して、どんな時代だったのか、歴史を学び、竈門炭治郎(かまどたんじろう)たちが過ごした時代をめぐりたいと思います。
題して、
【鬼滅の刃】の時代を
「光り輝く未来のために」
歴史を学ぼう。
「想いは不滅、時代はめぐる」
として【鬼滅の刃】の時代をめぐる旅へご案内します。
画面に[全集中!]でお付き合いください。
▼▼▼動画でもご覧いただけます▼▼▼
【鬼滅の刃】舞台は大正時代
大正時代とは?
- 日本では、1912年7月30日から1926年12月25日まで「大正」と言う元号を使っていたため、この時期を「大正時代」としている。
- 明治時代の後、昭和時代の前の時代。
- 現代に続く様々な文化が開花した、ロマンある時代。
- 14年5か月という短い大正時代。
- 原作では、単行本のあらすじで、「時は大正。」と明記しています。
【鬼滅の刃】の時代設定が「大正時代」と聞いて、鬼滅ファンの多くは、藤襲山(ふじかさねやま)で行われた鬼殺隊(きさつたい)に入る前の『最終選別(さいしゅうせんべつ)』での、炭治郎と手鬼の会話を思い出すのではないでしょうか?
【鬼滅の刃】手鬼「今は”明治”何年だ?」
藤襲山の最終選別で出会った手鬼が、『忘れもしない四十七年前、アイツがまだ鬼狩りをしていた頃だ。江戸時代…慶応(けいおう)の頃だった』と発言をしています。
※アイツとは、鱗滝左近次(うろこだき‐さこんじ)のことです。
慶応は1865年から1868年なので、手鬼の言うことを信じると、
最終選別が行われたのは、
大正元年(1912年)から3年(1915年)
ということになります。
最終選別が行われたのは、物語開始より2年後なので、第1話は、大正元年か、大正2年(1913年)。
また、炭治郎が、
正月になったら、みんなに腹いっぱい食わせてやりたいし、少しでも炭を売ってくるよ。
【鬼滅の刃】第1話[残酷]
と、言っていることから、第1話は、旧正月の2月上旬頃だと思われます。
大正時代は1912年の7月30日始まりなので、必然的に、第1話は、大正2年の旧正月の2月上旬頃ということになりそうですね。
2月かぁ…。
2月と言えば、[水柱(みずばしら)]冨岡義勇(とみおかぎゆう)さんと、
[蟲柱(むしばしら)]胡蝶しのぶ(こちょうしのぶ)さんの誕生日ですね。
冨岡さん、21歳になったばかりの頃に炭治郎と禰豆子(ねずこ)に遭遇(そうぐう)したのかな?
【鬼滅の刃】を通して、時代をめぐる
続いては、【鬼滅の刃】の登場人物にみる時代背景を見ていきます。
竈門炭治郎「炭焼き小屋の息子なんで!」
俺、炭焼き小屋の息子なんで!
料理は火加減![どやさ!]
【鬼滅の刃】第134話[反復動作]
※[どやさ!]は、炭治郎が『ドヤ顔』した時の【鬼滅の刃】の擬音です。
- 炭治郎が鬼殺隊に入隊する前、当時、炭治郎は13歳で「炭売り」として『楽じゃないけど幸せ』な生活を家族と一緒に送っていました。
- 鬼舞辻無惨が竈門家を襲撃していなければ、このまま「炭焼き人」としての生涯(しょうがい)を、全(まっと)うするつもりっだったのでしょう。
炭の歴史
- 炭は、木材等を蒸し焼き(空気が不足した状態で加熱すること)にしてつくられた黒い塊(かたまり)のこと。
- 木や竹など、原料の種類や加熱する温度の違いにより、多様な炭が作られている。
炭治郎の炭は、木を切っていたので、「木炭」ですね。
[補足]
- 正確には、炭治郎が弟の竹雄(たけお)に「できる範囲で構わないから、少し木を切っといてくれ」と頼んでいます。
- 「そりゃあ、やるけどさぁ。一緒にやると思ってたのにさぁ。」と、長男・炭治郎と一緒に木を切れず、ちょっとふてくされる次男の竹雄。(可愛い。)
- 炭の歴史は古く、日本では新石器時代(縄文時代)の頃からすでに用(もち)いられていたようです。
約30万年前 | 縄文時代より古い 石器時代の遺跡(いせき)から 日本最古の「炭」が発見された。 当時は「炭」が料理に 使われていたとされている。 |
弥生時代 | 弥生時代後期になると、 鉄製の農機具などを加工するための 熱源として「炭」が 使われるようになった。 |
奈良時代 | 奈良時代には、炭の製法が改良され、 質の高い白炭(しろずみ)が つくられるようになる。 高温で焼かれてつくられる白炭は、 火持ちがよい(一度炭に火が付くと 火が消えにくい性質)ため、 暖房にも使われ始めた。 |
1950年後半 | 炭はその後長い間、 料理や暖房の主燃料として 使われてきたが、 1950年代後半からは、 エネルギー源として手軽なガス、 石油及び電気が普及し始めたため、 炭の使用量が大幅に減少する。 |
炭の歴史はとても長いが、
日常利用での需要(じゅよう)が特に増したのは、「江戸時代」だと言われているぞ!
ただし、
- 江戸時代の頃の「炭」は、まだまだ高価なものであり、日常的に使用していたのは、主に江戸城内や大名屋敷、裕福な町家、そして遊郭(ゆうかく)や料亭などに限定されていたようです。
- 一般庶民の生活の中に定着したのは、明治以降の近代化にあわせてのこと。
第1話の炭治郎のように、麓(ふもと)の村に籠(かご)を背負って炭を売りにいくほど、炭が身近になったのは、おそらく、炭治郎のおじいちゃん、おばあちゃんの代の頃からの話だと思われます。
鋼鐵塚蛍(はがねづか‐ほたる)「”赫灼(かくしゃく)の子”じゃねぇか」
鬼殺隊が人喰い鬼を狩るために持つ日輪刀(にちりんとう)。
炭治郎の日輪刀を手掛けたのは、刀鍛冶(かたなかじ)の鋼鐵塚蛍(はがねづか‐ほたる)さん、37歳。
日輪刀をつくるには、「猩々緋砂鉄(しょうじょうひさてつ)」と「猩々緋鉱石(しょうじょうこうてつ)」の原料が必要になります。
ただし、原料があるだけでは、
日輪刀はできません。
鋼鐵塚蛍のような、腕のいい「刀鍛冶」と、炭治郎の家業の「木炭」も必要になったのです。
- 武器である刀をつくるために必要なのは「鉄」であり、その刀を打つ職人は当然「刀鍛冶」ですが、鉄の製錬(せいれん)にも、鍛冶(かじ)のためにも、不可欠となったのが、長時間にわたって高い温度、安定した火力を得られる「木炭」でした。
特に、戦国時代に種子島(たねがしま)に鉄砲(てっぽう)が伝わってからは、鉄砲を大量生産するために多くの「木炭」が必要とされたんだ!
- また、日本で千年余りにわたって、受け継がれてきた伝統的製鉄法に「たたら製鉄」というものがあり、その古典(こてん)となる[鉄山秘書]によると、『一に紛鉄(砂鉄)、二に木山(木炭)、三に元釜土』と書いてあります。
- 「木炭」は「砂鉄」に次いで重要な材料だったようです。
- 「砂鉄」が良くても「炭」が悪ければ鉄は涌(わ)かず、「砂鉄」が多少悪くても「炭」が良ければ「鉄」が涌く、ということを示しています。
「炭」と「刀」は切っても切れない関係のようです。
あぁ、お前、
“赫灼(かくしゃく)の子”じゃねぇか。
こりゃあ縁起(えんぎ)がいいなぁ。
いや俺は、
炭十郎(たんじゅうろう)と
葵枝(きえ)の息子です。
そういう意味じゃねぇ。
頭の毛と目ん玉が
赤みがかっているだろう。
火の仕事をする家は
そういう子が生まれると
縁起がいいって喜ぶんだぜぇ。
【鬼滅の刃】第9話[おかえり]
日輪刀のこととなると、他のことには目もくれず、刀鍛冶の里では、鋼鐵塚さんが、丹精(たんせい)込めて日輪刀を打っていました。
その横に「木炭」が描かれています。きっと、良質な「木炭」だったに違いありません。
ぜひ、背景にも注目してみてください。
【鬼滅の刃】14巻、第119話[よみがえる]で、観られます。
竈門禰豆子「むー!」(服装について)
禰豆子?どうした?
むー!むー!
羽織と隊服?
ああ、「和装と洋装」についてだな。よしよしヾ(´∀`)
ふんふん♪
大正時代の服装は、「和」×「洋」の組み合わせ!?
洋服(洋装)が広まったのは、大正時代よりも前となる、明治時代だ!
- 明治時代には鎖国体制(さこく‐たいせい)が終わり、制度や文化、習慣などが大きく変化。
- 上流階級の富裕層を中心に「洋装化」が進みました。
- 軍服から始まり、男性向けに「燕尾服(えんびふく)」や「フロックコート」、「インバネスコート」などが、導入されましたが、女性は男性よりも社会に出る機会が少なかったことから、変わらず着物を着用していました。
- ですが、着物の色や模様にバリエーションが増えたり、小袖の上に「羽織」や「吾妻(あずま)コート(東コート)」を羽織るなど、多少の変化はあったようです。
- パラソルや手提(てさ)げバッグ、指輪といったアクセサリーも取り入れられるようになり、和洋折衷(わよう‐せっちゅう)なファッションを楽しんでいました。
「大正時代」に入ると西洋文化が広く受け入れられるようになって、帽子(ぼうし)・ステッキ・ブーツなど、庶民にも「和洋折衷ファッション」の波が広がっていったようです。
「珠世様命!」愈史郎の服装[書生(しょせい)スタイル]
珠世(たまよ)によって鬼となり、珠世と行動を共にする青年・愈史郎(ゆしろう)。
- 愈史郎の服装は、着物・袴(はかま)の上下に中だけ洋風シャツを着ています。
- 夏目漱石(なつめ‐そうせき)[坊ちゃん]の主人公のような、いかにも「明治・大正期」を象徴(しょうちょう)する和洋折衷のこの出で立ちは、俗にいう「書生スタイル」。
- 「書生」は本来は「学生」と同じ意味で、主に地方から都会に出て親戚や知人などの家に居候(いそうろう)しながら、学校に通う・受験する人を指していました。
珠世様は今日も美しい、
きっと明日も美しいぞ。
栗花落カナヲの隊服にブーツ[女学生スタイル]
- 女性が学校に通い出したことをきっかけに、女学生の袴姿(はかますがた)も浸透(しんとう)する。
- 小袖の上から「行燈袴(あんどんはかま)」を穿(は)き、足元はレースアップのブーツと、現代の女子大生が卒業式に着用する袴姿の文化はここから始まりました。
栗花落カナヲ(つゆりかなを)の鬼殺隊服は「キャロットスカート」に「レースアップの白いブーツ」です。
可愛いですね。
カナヲのキャロットスカートが、段々短くなっていませんか?
気のせいだと思います。
※あだ名「ゲスメガネ」こと、鬼殺隊服・縫製(ほうせい)係の前田まさお。
そうですか…。
これから不死川(しなずがわ)さんがいらっしゃいますので、親睦(しんぼく)を深めるために、ご一緒にいかがですか?
何で不死川さんが来るんですか!?やめて!!
「関東大震災」がさらに「洋装化」が進んだ
- 1923(大正12)年に起きた「関東大震災」では、身体の動作を妨げる作りである和服を着用していた女性の被害が多かったことから、衣服の洋装化はさらに進んでいきました。
なんか悲しくなってきた。
・・・なぁ、
何のために歴史を学ぶんだ?
え?えーっと・・・、
何でだろうな…?
学校の科目だから?
竈門(かまど)少年!
我妻(あがつま)少年!
嘴平(はしびら)少年!
ピンクのワタシ!
煉獄(れんごく)先生!
「歴史をなぜ学ぶか」だが、
- 歴史は、過去の出来事などから、なぜそれが起きたか、その理由や関係性を考え、その「教訓を現代に活かすため」にある。
- 歴史を学ぶということは、過去の出来事をただ暗記することではない。
- 歴史を学ぶとは、俺たちが生きる「現代を理解するため」だ。
「現代を理解するため」・・・。
もし、君たちの祖先が子孫を残す前に死んでいたら、君たちの生命は、今あるだろうか?
・・・・・。
君たちは、
俺たちの祖先がどのように生き延びて、俺たちに生命をつないでくれたのかを知りたくはないか?
自分の生命は、歴史的につながれてきた、確かな存在なんだ。
俺たちの祖先は、 何万年も厳(きび)しい時代を生き延びてきた。
歴史というのは、
人間が数千年の歩みを書いたものだ。
どのような社会が国民には必要で、
どのような人材が優秀だったのか、
なぜ我々は戦わなければならないのか、
すべてが歴史には記されている。
さらに、俺たちは祖先からのつないできた知恵を次の世代にどのようにつなぐことができるのかを考え行動したい。
だから、歴史を学ぶんだ。
君たちは、いずれ結婚をして子供ができるかもしれない。
自分たちの子孫が「幸せになってほしい」と思わないか?
「光り輝く未来のために」
煉獄先生・・・。
・・・・・。
…何、しけた面(つら)してんだよ!
今から図書館に行くぞ!
歴史の勉強だ!!
うわぁ!
首根っこ掴むなよ!
う゛ぎゃぇ!
煉獄先生!
ありがとうございました!!
伊之助!
図書館はそっちじゃない!
猪突猛進はダメだ!
廊下を走っちゃダメだ!
ふふ…。
煉獄先生。
産屋敷(うぶやしき)理事長!
※キメツ学園の理事長こと、産屋敷耀哉(うぶやしき-かがや)。
煉獄先生のお陰で「想いを紡(つむ)いでくれる」子供たちが増えた。
ありがとう。
身に余るお言葉!
大変嬉しく存(ぞん)じます!
お館様(やかたさま)!!・・・あ!
お館様?
ふふ、どうしてかな、その呼び方、どこか懐(なつ)かしい感じがするよ。
嘴平伊之助「天ぷら!」(食について)
図書館に移動した炭治郎たち。
おい!紋次郎(もんじろう)!
これ!「天ぷら」じゃねぇか!?
※紋次郎は、炭治郎のことです。
うん、そうだね。
伊之助の好きな「天ぷら」だ。
なぁ、字を読んでくれ。
なんて書いてあるんだ?
えーっと、「天ぷら」は、
伊之助の大好物「天ぷら」の歴史
- 日本に「天ぷら」の調理法が伝わったのは、室町時代。
- 鉄砲とともに“南蛮(なんばん)料理”としてポルトガルから伝わったとされる。
- ポルトガル語の「テンポーラ(temporas)」が語源。(諸説あり)
- 16世紀(西暦1501年から西暦1600年の100年間)、南蛮料理を元に「長崎天ぷら」が生まれました。
- やがて、17世紀(西暦1601年から西暦1700年の100年間)には関西に伝わり、江戸時代には関東まで広がりました。
よくわかんねぇけど、
「天ぷら」は昔からあるんだな!
「天ぷら」と同じ時期に日本に伝わったものに、ポルトガルの焼き菓子「パンデロー」が元になっている「カステラ」があるよ。
- カステラは、戦国時代に伝わった「角寺鐵異老(かすていら)」が原点。
- 栄養価が高く、大正時代にはお見舞いの品(しな)としても、送られていた。
他にも、
ポルトガルから伝わった南蛮菓子は、禰豆子の好きな「コンペイト(金平糖)」や「ビスカウト(ビスケット)」があるみたいだよ。
炭治郎が浅草で食べた「うどん」の歴史
- 「うどん」は「饂飩」と書きます。
- 奈良時代(710年~794年)、遣隋使(けんずいし)によって中国から渡来した「混飩(こんとん)」という、小麦粉の団子に餡(あん)が入った団子菓子が起源とされています。(諸説あり)
- やがて混飩を温かい汁に入れて食べるようになり「温飩(おんとん)」と呼ばれ、これが転じて「おんとん」→「うんとん」→「うどん」になったと言われています。
- うどんが現在のような形になり、庶民に食べられるようになったのは、江戸時代初期の頃と言われている。 (諸説あり)
炭治郎が浅草で「ぞん!」と食べた「うどん」は「山かけうどん」だね。美味しそう!
煉獄杏寿郎「うまい!うまい!」と食べた「駅弁」の歴史
- 日本で最初の駅弁は、1885年(明治18年)に宇都宮(うつのみや)駅で売られた「おにぎり2個・たくあん2切れ」という説が有力。
- その後に日本全国で地方色ゆたかな「駅弁」が誕生した。
「駅弁」の始まりは、
とてもシンプルなメニューだったんですね。
ちなみに、
俺が食べていたのは
「牛鍋弁当」だ!
牛肉みたいな高級品が入ったお弁当は、上等弁当(じょうとう‐べんとう)と言われていて、結構、(値段が)高かったらしい。
煉獄さんはいくら分食べたのかな?
その他、ハイカラな「洋食」
3時のおやつにバターたっぷり塗(ぬ)った、「パンケーキ」を作るからお楽しみに!
- 明治時代、西洋文化を取り入れたい政府(せいふ)の意向(いこう)で「洋食文化」が広まり始める。
- その後、大正時代には、「洋食」がすっかり一般化する。
- 数多くの洋食レストランが誕生し「オムライス」や「とんかつ」がどこの店でも1番の売れ筋に。
- お菓子も西洋化し、洋食レストランでは、「ハットケーキ」の名で「パンケーキ」も食べられていた。
- 1917年(大正6年)には「コロッケの唄(うた)」が世間(せけん)で大流行。
「今日もコロッケ♪」
「明日もコロッケ♪」
と、歌われていたようだ!
我妻善逸「アタイ絶対に吉原一の花魁になる!!」(楽器について)
アタイ絶対!
吉原一の花魁(おいらん)になる!!
(べべん)
※(べべん)は三味線を弾く音。
ここでは【鬼滅の刃】の登場人物が使っている「楽器」について見ていくよ。
「南無阿弥陀仏」悲鳴嶼行冥の趣味「尺八」
- 長さが一尺八寸(いっしゃくはっすん)(約54㎝)だったことから名付けられた木管楽器。
- 室町時代に一節切(ひとよぎり)という縦笛が登場し、これを吹く虚無僧(こむそう)たちが「尺八」を広めたとされる。
[*虚無僧(こむそう)…禅宗(ぜんしゅう)の一派「普化宗(ふけしゅう)」の僧侶のこと。天蓋(てんがい)という独特のカゴのような笠(かさ)を頭にかぶっている。]
悲鳴嶼さんは、長時間「尺八」を吹きすぎて、おばあさんにホウキで叩かれたことがあるらしい。
「琵琶」の音から始まる鬼の集い「パワハラ会議」
- 昔から愛されている「琵琶(びわ)」の始まりは、世界最古の文明が発祥した地であるメソポタミアまで遡(さかのぼ)る。
- その後はインド、中国を経て日本に伝わったとされる。
七福神の弁財天(べんざいてん)が
手に持つ楽器は「琵琶」が描かれています。
【鬼滅の刃】で「琵琶」を使っていたのは、「鳴女(なきめ)」という「鬼」が「鬼を集める(パワハラ会議を開催する)」時に「べべん」と使っていました。
「鼓(つづみ)」を操り鬼殺隊を翻弄(ほんろう)
[*翻弄(ほんろう)…思うままにもてあそぶこと。手玉にとること。]
- 日本では奈良時代(710年)の昔から使われていたとされる打楽器。
- 鼓の側面に張られた縄を「調緒(しらべお)」といい、これを締(し)めたり、緩(ゆる)めたりして音色を調整することができる。
「鼓」といえば、芸人の「すゑひろがりず」さんが手に持っているのを思い浮かべました。
【鬼滅の刃】で「鼓」を使っていたのは、「響凱(きょうがい)」という「鬼」が使っていました。
花魁を目指した善子(ぜんこ)が弾いた「三味線」
- 「三味線(しゃみせん)」は、中国より伝来した楽器であるといわれています。
- 室町時代に中国の「三絃(さんげん)」が琉球(沖縄の別名)へ渡来し、「三線(さんせん)」となり、それを日本の楽器として改良、発展させたものが「三味線」。
- 日本に正式に伝わったのは16世紀ごろといわれている。
テレビアニメ【鬼滅の刃】遊郭編では、善逸が[雷の呼吸(かみなりのこきゅう)]を使いながら、「べべん」と弾いていましたね。
音が本格的で、善子の指の動きもすごかったので、スタッフロール?(クレジット)を見てみると、「小山豊(おやまゆたか)」さんの名前がありました。
小山豊さんは『津軽三味線小山流の三代目』だそうです。
小山流は津軽三味線界でも、
日本三大流派の1つだよ。
アニメ【鬼滅の刃】のこだわりがすごい。
スゴすぎて震える。(((((・∀・)))))
【鬼滅の刃】を通して、歴史を学ぼう
【鬼滅の刃】の中で1番古い時代だと思われる、「平安時代」から順に見ていきます。
【鬼滅の刃】平安時代(794年~1185年)
- 鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)が生まれたとされる平安時代。
日本史 | 794年:平安京に都を移す 935年:平将門(たいらのまさかど)の乱 |
【鬼滅の刃】 | 鬼舞辻無惨が鬼化する(15巻127話) 産屋敷一族に呪いがかかり、 短命になる(16巻137話) 最初の鬼狩り(鬼殺隊)が登場(21巻186話) |
鬼舞辻無惨「鬼になればいい」(鬼について)
無限の刻(とき)が欲しいのであれば、「鬼」になればいいだけのこと。
- 鬼(おに)という呼び名が定着していったのは平安時代。
- 仏教思想の影響で、鬼が「地獄の鬼」のような実体を伴う怪物として認識され始めました。
- これらは「この世ならざるもの」という意味の「隠(おぬ)」と呼ばれ、さらに「鬼」という名前へと変わったと言われています。
- この頃から鬼は、恐ろしい怪物として物語などの中で描かれるようになります。
【鬼滅の刃】戦国時代(1467年~1615年)
- 安土桃山時代(1568年~1600年)
- 継国巌勝(つぎくにみちかつ)と継国縁壱(つぎくによりいち)の双子の兄弟が生まれたとされる時代。
日本史 | 1590年:豊臣秀吉が全国を統一する 1600年:関ヶ原の戦い |
【鬼滅の刃】 | 継国巌勝・縁壱が誕生する(20巻177話) 家族を鬼に殺された縁壱が 鬼狩りになる(21巻186話) 縁壱が呼吸を教える(21巻186話) 巌勝がすべてを捨て 鬼狩りになる(20巻178話) 巌勝が鬼化して 「黒死牟」となる(20巻178話) |
「遊郭(ゆうかく)」を開いたのは、安土桃山時代のあの武将
吉原遊郭(よしわら‐ゆうかく)。
男と女の見栄と欲、愛憎(あいぞう)渦巻(うずま)く夜の街・・・派手だろ?
- [音柱(おとばしら)]宇髄天元(うずいてんげん)たちが、潜入した「吉原遊郭」。
- 遊郭が始った時代は、なんと「安土桃山時代」。
- 1585(天正13)年より、戦国武将の豊臣秀吉(とよとみひでよし)が「遊郭」を開いた。
- 「遊郭」は、徳川幕府にも引き継がれ、全国に約20カ所の幕府公認遊郭を指定し、遊女や店を取り締まる規制を整えた。
- 1957(昭和32)年に「売春防止法」が成立、1958(昭和33年)4月1日に「遊郭」の歴史は完全に幕を閉じる。
【鬼滅の刃】江戸時代(1603年~1868年)
- 狛治(はくじ)/猗窩座(あかざ)が生まれたとされる時代。
日本史 | 1603年:徳川家康が征夷(せい‐い) 大将軍となる 1637年:島原・天草一揆 1853年:ペリー来航 |
【鬼滅の刃】 | 狛治が鬼化して猗窩座となる(18巻155話) 無惨が十二鬼月を作り始める(18巻155話) 鱗滝左近次が手鬼を捕らえる(1巻7話) |
「生きた江戸は体感できる」江戸時代に広まった相撲のお話
俺の趣味は、
相撲(すもう)観戦だ!
- [炎柱(えんばしら)]煉獄杏寿郎の趣味は「相撲観戦」。
- 相撲と言えば、日本の国技とも言われ、1500年以上の長い歴史を誇(ほこ)るスポーツ。
- 現代では日本人にとって相撲観戦はよく知られた娯楽(ごらく)の1つですが、娯楽として興業が成り立つようになったのは江戸時代。
- 元々は奈良時代や平安時代に「相撲節会(すもうせちえ)」という宮中(きゅうちゅう)行事として行われていた。
[*宮中行事(きゅうちゅう-ぎょうじ)…一般的に、皇居において行われる年中行事を指す語。]
- 江戸時代に入ると、寺社の建立や修理の費用にあてるための「勧進(かんじん)」という名目で、寺社の境内(けいだい)の中で勧進相撲が行われ始め、相撲の力士を職業とする人たちも現れます。
- 初期の頃は土俵(どひょう)というものは存在せず、見物人が輪を作り、その中で取り組みが行われていたそうです。
江戸時代後期には、最強の力士(りきし)と言われた「雷電(らいでん)爲右エ門(ためえもん)」の活躍(かつやく)もあり、江戸庶民の娯楽として相撲人気が大変高まったと言われている!
- この雷電、一説によるとなんと、身長197㎝、体重172㎏もあったそうです。
- 江戸時代の男性の平均身長は155㎝前後。
【鬼滅の刃】明治時代(1868年~1912年)
- 炭治郎、禰豆子、善逸、伊之助など、大正時代に活躍した鬼殺隊士が生まれたとされる時代。
日本史 | 1868年:戊辰(ぼしん)戦争 1894年:日清(にっしん)戦争 1904年:日露(にちろ)戦争 |
【鬼滅の刃】 | 珠世の手で愈史郎が鬼化する (2巻15話・3巻19話・ジャンプGIGA付録) 悲鳴嶼行冥と子供たちが鬼に襲撃され、 鬼殺隊へ入隊(16巻135話) 栗花落カナヲが 胡蝶姉妹に助けられる(7巻番外編) |
宇髄さん質問です!(ぱぴ)
ん?なんだ?
宇髄さんが屋根に登って「ツッタカター」と走る場面に「電線」が描かれていました!
「電線」はいつからあるんですか?
いい質問だ。
「電線」はな、
日本での電線使用は、1887年(明治20年)、既に完成していた第1電灯局に続き東京電灯第2電灯局が完成し架空電線による電力の供給が始まった際と言われ、当初人々は扇を広げて電線の下を潜ったといわれている。
「電線」Wikipedia
- 人間がはじめて発見した電気は「静電気」といわれています。
- 紀元前600年頃、ギリシアのターレスという人が、琥珀(こはく)を布で擦(こす)ると、糸くずなどを吸(す)い寄(よ)せることを発見しました。
あれだろ!
下じきを服で擦って頭にのせると
髪の毛が吸いついてくるやつ!
- 「摩擦(まさつ)電気」というもので人間がはじめて発見した電気(静電気)。
- 1752年、アメリカのフランクリンは、雷が電気であることを発見。
- 1882年(明治15年)、東京・銀座に灯された日本で初めて電灯(アーク灯)を点灯。
- 初めての発電所が登場し、電灯は東京を中心に急速に普及。
つまり、炭治郎たちが見上げてた空は、よっぽどの山奥ではない限り、電柱が空を走っている、私たちが今現在も見てる空と割と近かったのかもしれません。ロマンチック~♡
【鬼滅の刃】大正時代(1912年~1926年)
- 鬼殺隊士が活躍し、鬼舞辻無惨、鬼を退治した時代。
日本史 | 1914年:第一次世界大戦参戦 1918年:米騒動 1923年:関東大震災 |
【鬼滅の刃】 | 炭治郎の家が襲われ 禰豆子が鬼化する(1巻1話) 炭治郎たちが最終選別を突破する(1巻6話) 炭治郎が初任務を経て 鬼舞辻無惨と遭遇(2巻14話) 珠世と愈史郎が仲間になる(3巻19話) 炭治郎が善逸と伊之助と出会い、 響凱を倒す(3巻25話) 炭治郎たちが那田蜘蛛山にて 累を倒す(5巻42話) |
大正時代に人気だった名前
- 大正時代に人気だった名前は、元号改正の影響で、1912(大正1)年は「正一」くん、1913(大正2)年は「正二」くん、1914(大正3)年は「正三」くんが1位になるなど、「正」の漢字が人気でした。
- また「清」くんが大正時代の15年間のうち、1位9回、2位5回と圧倒的な人気でした。「清」くんの人気は昭和に入っても続き、1955(昭和30)年まで常にベスト10にランクインしました。
鼓屋敷(つづみ‐やしき)で出会った、
正一くん、元気にしてるかなぁ…。
正一くん強かったのに、
炭治郎が無理やり俺から正一くんを
引き離(はな)したんだよなぁ…。
炭治郎ぉ、
責任とって俺を守れよ。( ・´ー・`)
・・・・・。
何か言えよ!
ちなみに、女の子は、大正時代の前半は「千代」ちゃん、「千代子」ちゃんと「千代」の字を使った名前が人気で、大正の中盤以降は、「文子」ちゃんが人気でした。
まとめ
今回は、【鬼滅の刃】の時代を「光り輝く未来のために」歴史を学ぼう。「想いは不滅、時代はめぐる」として、【鬼滅の刃】の「時代」についてご紹介しました。
【鬼滅の刃】を通して、歴史に触れてみて、思ったことは、やっぱり【鬼滅】は「実におもしろい」( ・´ー・`)、作品だった。
「生きてきた時代は違うけれど、命を、想いを、”輝く未来のために”紡いでくれて、ありがとう。」
『生まれてくることができて、幸福でした。』「ありがとう」
今回はここまでです。
最後まで[全集中!]でお読みいただきありがとうございました!
それではまた、【鬼滅の刃】の活躍の時まで。
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